Chestからこんなのがでてました。
Critical Conversations Say this, Not that
日本と”海外”でよく比較される終末期の議論ですが、
確かに日本にいるときはWithdrawとよぶ積極的な治療の手控えというのはやっていませんでした。抜管したり、投与薬を止めたり。
よく言われるように、日本の法律では”死のダブルスタンダード”があって、
脳死とされうる状態になった際に、
家族が移植を希望→脳死つまり死亡
家族が移植を希望しない→脳死ではないので心臓死にならない限り死亡にならない→心臓死を”待つ” (Withhold)
ということがままありました。
そしてこの”待つ”のバラエティーもそこそこあります。
つまり、脳死を選択しなかった場合、法的には死んだことにはならないのです。
「脳死」なので、「死」になりえる状態にもかかわらずです。
確かに、脳死を人の死としていいかというところに科学的道徳的議論があるのは認めます。
そこの議論は置いといたとして。
こちらに来てからというものの、
Withdraw、つまり治療の手控えによるものがICU死亡全体の9割を超えます(自施設データ)。
日本にいた医師人生でゼロだったのがこちらでは9割を超えているのです。
これほどの違いはどこからくるのか?
これはよく「文化の違い」として語られることが多いです。
ただ個人的な印象はそれとは異なります。
日本で、特に小児で神経学的ダメージが非常に大きくさらに回復の見込みのない患者を診療にあたったときの、
医師の見通しの立て方のスキル
また
患者家族とのコミュニケーションスキル
双方における「不足」がこの事態を招いている一因になっていると、
個人的には考えています。
つまり、
「文化の違い」
ではなく、
「終末期における議論の未熟さ」
と
「終末期における医師のスキル(トレーニング)の不足」
が根幹として大きくあると思っています。
ただ今回、この論文を読んで思ったのは、
「まあ欧米人も同じようなことは思ってるんだな」
ってところです。
Futileというあいまいな言葉、よく使っています。
”Do you have any questions?"、ほぼ毎日ききます。
省みも含め、将来のトレーニングにつなげていきたいと、
ひしひしと思う次第です。
でもね、「クリスタルボール」とか言う医者は、まだ自分の周りではみたことないよ。