豪州と日本のはざまで小児集中治療を学ぶ

日本から豪州に渡ったPICUフェローである管理人が小児集中治療に関連するあれこれを勝手につぶやいているブログです。

忘れられない勤務 ①Taking a sad day

このタイトル「豪州と日本の間で、、、」をつけてブログをやってみようと思ったとき、自分の豪州での臨床が終わったらどうなるだろうというのは、少し思っていた。

でも、まあこういうタイトルの方が見つけやすかったり、実際豪州臨床に関連して書いてきたことが多かったから、それでよかったとは思っている。ただ、こういった限定的なタイトルをつけるとある時に区切りが来るんだなということも、いま実感している。

 

今日が最終勤務でした。

 

2018年に豪州にきてから今まで途切れなく臨床をすることができて、それでいて学位や資格をとれたことは本当によかったと思う。

振り返ると、どの時点で「お開き」なってもおかしくなかった豪州生活ではあった。それだからこそ出会ってきた人たち、特に自分を「認めてくれた人」たちに感謝はしても仕切れない。挫かれまくった自尊心と、波に抗う反骨魂と、だめなもんはだめだという諦めを覚悟する瞬間が交互にかつ短時間に訪れたこの4年半を生き抜いた今、正直なところ「やりきった」感覚はあるし、自分を褒めたいという気持ちは抑えられない。

最終日だった今日、この4年半を全く反映せず労うかのように、朝の回診で立てた計画は問題なくすすみ、新入院はなく、夕回診はただの確認のみで終わり、回診を自分に任せきりにしたコンサルタントは「Happy day」と言いながら僕らにコーヒーをクロワッサンをご馳走しただけの一日を終えて帰っていった。

色々振り返りたいことがあるけど、今振り返ってみて「忘れられない勤務」というのがいくつかあるので紹介したい。一度に全部はできないので、とりあえず一つ。

 

最初に紹介したい「忘れられない勤務」は、実は「勤務できなかった勤務」である。

こちらにきてからもう3年が過ぎた時、その週の勤務は月曜から5日日勤と2日週末夜勤の予定だった。

だいぶ仕事もこなせていたし、シニアの仕事を任せられていて、記憶している限り月曜から木曜まですごく困った感じは記憶にない。コンサルタントは自分に回診をほとんど任せきりにしていて、それなりにうまくこなしていたと記憶している。

ただ木曜に夜にひどく疲れていて、そしてなぜか気持ちもすごく沈んでいた。多分少なくとも一人、その週に患者を亡くしていたと思う。家族に「明日仕事にいけないかもしれない」といって出来るだけ早めに床についたのだが、その「かもしれない」が現実になった。

 

金曜日の朝に起きた時、時間はいつもの勤務に行くときの時間だったので、寝坊したわけではなかった。ただ全く体が動かず、「今日は仕事にいくな」と体が拒否していた。

金曜日。まだ平日。人はいる。明日からの週末の夜は自分がインチャージ、責任者でオンコールになる。そこはいきたいし、譲れない。でも、今日仕事に行くとそのあと仕事に行けるようになるまでに複数日かかるだろうと感じた。

 

正直なところ、そんな感覚はそれまでもないわけではなかった。今の(精神)状況で勤務していいのか。でもそれまでは、そういうことが起こっても乗り切れていたし、なんとなく自分が許さなかった。

 

布団の中で覚めた頭の中をある言葉がよぎる。

 

「It's OK not to be OK」

 

OK, I'm not OK today.

7時になるのを待って、同日の責任者に電話をして、休むと伝えた。

理由はうまく言えなかった。「熱もない。咳も倦怠感もない。コロナは陰性。でも今日はいけない。明日はいくから休む」といったら、「わかった」といってくれて非コロナの病欠扱いになった。

その後もあまり眠れなかったけど、ゆっくり過ごして、その後の2夜勤は予定通りやって、そのあとも特に勤務は問題なかった。

 

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その空白の勤務のことを忘れない。あれをちゃんと休まなかったら、ここまで来れなかったとなってもおかしくなかったと思う。

1日の休日と、その後数年の勤務、それを天秤にかけようとすることさえばからしい。

あの時ちゃんと休んだ自分が、今ぱっと振り返った中でのMVPだ。

 

小児の集中治療というのは辛い現場である。こどもが病気になって最も苦しい時間帯を共にし、その後は忘れ去られることが多い。最も多くこどもの死に向き合い、その家族と会話し、悪い知らせ伝える役割を担う。こどもの死がわれわれの仕事の一部である。避けては通れない。

 

ただしその代償ももちろんある。

その代償に耐えきれない瞬間があっても、全くおかしいことではない。

適正がない、強さが足りない、言いたければいってればいい。われわれはつらい場所で働いている自覚がない人にむしろこの仕事を任せられるのか。

 

悲しくなってもいいと思うし、その悲しさで時々立ち上がれなくなっても、自分はいいと思う。ただその時はちゃんと現場を離れて、適切な対応をして、好きな現場に帰ってきて欲しい。そのまま離れることになるのは、個人の問題ではなく、PICUのシステムエラーである。

 

たった1日休むだけでリセットできた自分はまだラッキーだったとも言える。

だからこそ、臨床で常にProactiveであるように、自分や同僚の「管理」についてもProactiveでありたいし、そうでなければならないと自分に言い聞かせている。

 

日本に帰ったら「Sad day(仮)」を作りたいと思っている。悲しかったらちょっと休んだらいいんじゃ、みたいな感じ。それをやるには十分な人手がいるのは間違いないんだけど、それも含めて、そういうのができるのが「いい職場」であるなら、いい職場を作るための工夫を重ねないとな、とぼんやり考えている